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シベリア出兵の真実

大変なことが起こっているんですね。気をつけていきたいと思います。

第一次世界大戦でヨーロッパは二つに割れ、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、レーニンの指導する赤軍が勢力を増し、1917年10月に世界最初の社会主義革命であるロシア革命が起きる。1918年に帝国は崩壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。

ロシア共和国は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで連合国から離脱する。このため、ドイツは東部戦線の兵を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はロシアの極東ウラジオストクに「チェコ軍捕囚の救出」を名目に出兵し、ドイツの目を再び東部に向けさせようとした。同時にロシアの社会主義革命勢力に対して楔を打ち込む意味もあった。

すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。連合国は地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。アメリカは日本がシベリアに勢力を伸ばすのではないかと警戒したが、日本は当初慎重であった。後に総理大臣となる原敬は外交調査委員会で、アメリカとの協力なしには出兵は難しいと主張し、アメリカと共同歩調をとるということで派兵を決定した。この日米の決定に際して、フランスの首相クレマンソーは「ようやく重い腰をあげた」として賛辞を送った。

当時の日本側の事情として、ロシアに地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた。日本軍はこれらの地域に社会主義が波及することを未然に阻止したかった。また、日本の政体である立憲君主制と社会主義は水と油であるという政治的イデオロギーも働いた。日本が設立しようとした沿海州共和国・極東共和国は非社会主義ロシア人(白系ロシア人)に支配させ、この地をソ連と中国大陸の緩衝帯にしようとしたとの見方もある。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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2007年11月22日 21:05に投稿されたエントリーのページです。

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